1984年7月31日火曜日

失敗から



やっと大学生になった~!・・・

親を泣かせて、余計な一年、駿台の臭い飯を食い (・・・いや、まあ、食堂は、ふつ~に、美味しかったすけど・・・) 、何しろ共通一次の一期生で、・・・何が起こるのかわからない!と、予備校の先生にまで言われ、危ぶまれた 「前例のない入試」 を、潜り抜け、どっぷり暗い浪人生から、晴れて、憧れの、明るい大学生活へ。医学部基礎棟の、教務室に手続きに・・・・いや、その日、雨で空は真っ暗でしたけど・・・寒かった。

教務であれこれ入学手続きの後、振り返って、ふと見上げると、向こうの方の、二階建ての汚い木造の建物が・・・ううん、国立はボロッちいから、こんなもんか?・・・・んでも、いろんな、運動部の立て看板が、賑やかに夜の市場のように並び立って、・・・見るからに、楽しげな雰囲気が、ジワジワと、大気中に、滲み出しているように見えました。

そう言えば、俺、一高では水泳部だったっけ・・・確か、医学部の赤石先輩が、よく、合宿所に、「たこ焼き」とか、差し入れしてくれていたなあ・・・ごみごみした階段をタテ看など避けるように二階へ上がる。
入口に「水泳部」って書いてある・・・扉は開けっ放し・・・、

しかし、この建物、なんか、汚いおっちゃんたちがうろうろしていてちょっと怖いかなあ・・・
そっと、片目で部屋を覗いてみる・・・
と、
いきなり
「お! 来たなあ?」
あれ?
ちょっと、覗いただけなのに、なんと、その時、ちょうど偶然、
窓辺に座り込んで、碁を打っている、その赤石先生と、ばっちり、目が合ってしまいました。

赤石先生も一高の水泳部のメンバーは覚えてくれていたらしく、
そのまま
「いいから、まあまあ、まず部屋に入れ入れ・・・・」と、連れ込まれてしまう

「いいからまずまずノメノメ」
「あの。・・・僕、まだ、いちお~未成年です」

「大学に入ったら、呑んでいいって決まってるの!」
「まだ大学生になるのは来月です」
「いいのいいの、ここではそう決まってるから」

何が? 良いのか? さっぱりわからない

良い子の皆さんは、ぜったい昔の真似をしないでくださいね。
いまは
「アルハラ禁止、未成年飲酒は禁止! 」です

「とにかく、いいから、入れ入れ、いやあ・・・リレー組めなくなるところだった。」
と、当時の佐々木こさぶろうキャプテン

「おまえ、一高で、水泳部にいたんなら、一応、四種目泳げるだろ?」
「え?…何の話ですか?」
「いや、
・・・バックとバタが、学4でSGTなんで、練習できないんだよ、いやあ、今年、メドレーリレー出られないかと思った」

「んでも、僕、一応フリーなんすけど・・・」
「水泳部なら四種目泳げるだろ」
「はあ」

「じゃ、今年は、まだ井樋さんが(現整形外科教授)がんばってくれるから 
 おまえはバックね・・・」
「え? 僕バックの試合、出たことありません・・・・」

たしかに、昭和54年当時の水泳部では、リレーが組めるかどうか、より、存続自体が危ぶまれるような状態でした。・・・確か、学4が5人でSGTですが、ほとんど引退、学3が二人、学2が1人に、学一3人、教養二年が2人っきりで、合計しても8人、幽霊部員の先輩もいたりして、今年、誰も入ってこなかったら、フリーのリレーはともかく、メドレーリレーは、専門の選手が足りなくて出られない状態だと先輩に言われました

こ・こ・こ・・・これでは、このまんまじゃ、今後、水泳部で何をやらされるかわからない・・・と、ミルコンでたまたま隣に座った村上君、向かいに座った高橋君、無理やり誘って水泳部へ・・・結局、その年、七人の新入生を迎え、実質、なんと、部員数が倍増することになったわけです。

練習も、結構、なかなかに、スチャラカでした
「一高ではどんな練習してた?」
「え? ふつうに練習していましたが・・・」
「うん、実は、高校で水泳部だったの、ここではお前一人だ。」
「え?」
「ちょっと練習メニュー考えてみて・・・合計一日一万泳げばいいから」
「そんな、距離だけ決まってるんですか~無茶です。・・・僕まだ入って一か月目ナンスけど・・・・」

ところがこの佐々木コサブロウキャプテン。
実は、フリーのベストタイムがほとんど私と同じ
ダッシュでもスプリントでも、
後輩に負けるかあ!
と、猛烈な勢いで後半巻き上げるので、私も、ものすごく練習になり、
昭和54年は、東医大男子総合3位を果たすことができたことになりました

当時としては歴代最高でした
「まさか、東北大が、三位に入る日が来るとは?・・・」と、先輩に驚かれたものです


時は流れて三年後。
「や・・・山家さ~ん! ・・・てえへんだ! てえへんだ! てえへんだ」
と、
一高水泳部から来てくれた1年後輩の中道君

「え?・・・なになに、医者はまず、落ち着かないとだめだよ」
と、一応先輩ぶる私
(・・・まだ、医者じゃないけど)

「んだって山家さん・・・東北大、二ケ(200リレー)、一位で決勝に残ってる! 
トップですよ! トップ! 
・・・こんなの、水泳部、歴史始まって以来、絶対、初めてですよ!

「・・・え“」
(・・・は、「え」に点々・・・こんな字は日本語には、ありません・・・ですが、この時は、ホントにこんな気分でした)

「・・・・そりゃあ、ホントにたいへんだ」。

「それで山家さん」
「・・・ん?」
「800の決勝! 辞退してください! リレーの直前じゃないですか、ベストでませんよ、慈恵・東京医大・福島・うちが、0.1秒以内に並んで決勝に進んでるんです・・・先輩が、ベスト出せば絶対優勝です」

「な、・・・なんだとお?」
「だって先輩、800で勝っても三位で5点しか入りませんよ。二継で勝てば、リレーの点数は倍だから、14点です。総合で二位か三位だって見えてきますよ!」

・・・・おれ、自分で決勝残って、自分で辞退するの?・・・・ううむむむむ・・・・。
いや、正直困りました

棄権で決勝サボりますって、その俺が、目の前に座っているじゃないですか・・・
その時は、折り悪く、よりによって仙台での東医体主管。
なので、審判は、宮城水連の先生方・・・って、二高水泳部の先輩とか、審判が、一高以来の顔見知りで、顔を知っている先輩方の中で・・・
わたし堂々のサボり・・・っすか?・・・ううん

「キャプテンに聞こう」
「伊藤キャプテン・・・・これこれ云々こういうわけで・・・」

「・・・え“」
(・・・は、「え」に点々…以下略)

「ど、どうしよう・・・山家・・・お前どうすればいいと思う?」

「どうしましょう・・・・」
「先輩に聞いてみるか?」

ちょうど仙台なので、当時のコーチや監督の先生もたくさん来ています
「せんぱ~い!・・・斯く斯く云々で・・・どうしましょう」

「・・・え“」
(・・・は、「え」に点々…以下略)

当時は東京五輪の根性とハードトレーニング(・・・なんだそりゃ)で、重いコンダラひきが、まだまだ流行っていた時代(「巨人の星」のローラー引きのことです)
・・・コーチの先輩も、何も考えずに一言。

「根性あれば何とかなる!・・・気合い入れていけ!」
「ハイ」

・・・何ともなりませんでした・・・

練習量とスタミナだけは自信ありましたが、・・・何しろ800直後の五十ダッシュ・・・短距離なんて馬鹿にしていましたが、・・・さすがに、この時だけは、30m過ぎたところで、いきなり心臓から、前に血液が出ていきません・・・二の腕から上が動かない・・・左のコースから、福島医大が、巻き上げてくるのが、分かる・・・バシッとタイミングぎりぎりで岡田が飛び出す(現呼吸器外科)・・・岡田が一人かわす・・・・最後の石川・・・さらに追いすがる。

バッシャ~・・・
と、本当に、四校同着に見えました。

・・・結果は
・・・慈恵がちょっと前か?
・・・飛沫の大きさで、タッチがよく見えない。

・・・審判が揉めています・・・

着順判定の上、
一位、慈恵医大、二位、東京医大、三位、福島医大・・・そして、四校0.1秒差の中に並んで着順判定で・・・東北大は?・・・・無念の四位。

どう考えても、俺が一番悪い・・・

その年は、東北大は無事、主管を務め、総合5位。

どっぷり暗くなって、ビールを飲む気にもなれないのでした
キャプテンにもコーチにも相談しましたが、やっぱり、自分で800にも出た私自身が一番悪いとしか思えません。

あ“~・・・・、黒歴史だなあ。

余談ですが、
・・・水泳の記録を決めるのは、心肺機能です!
・・・勝手に断言!
(みなさん・・・、チャんと、練習して心肺を鍛えましょう!)

この時の私に、いまの、うちの人工心臓がついていたら、30mから、もう1ダッシュ! できたはずです
(・・・たぶん)
岡田の肺が、途中で取り替えられれば(肺移植!)、更なる、酸素加で、もう一伸びできたはずです。
・・・と、言うような、研究を、加齢研では行っています。
・・・閑話休題でした


反省に、基づいて、
真面目に挑んだ幹部学年での次年度は、総合4位。
ううん、3位ならメダルだったけどなあ・・・残念。
・・・来年はSGTか、・・・

「中道! 後は、がんばって・・・んでも、俺、200だけは得意だから8ケだけは出てやってもいいぞ!」
「アハハ・・・おねがいしまっす」

もう、6年生になれば、半分戦力外のつもりで悠々と出ます
と、
初日が、終わると・・・

「や・・・山家さ~ん! ・・・てえへんだ! てえへんだ! てえへんだ」

「おいおい中道、お前もうキャプテンなんだから、落ち着いて・・・どうした?」
「・・・それが、慈恵がフライングでこけて、東京医大が、さっき泳法違反で沈んで・・・東北大、なんとトップで初日、折り返しています!」

「・・・え“」
(・・・は、「え」に点々…以下略)

「・・・それは、確かにたいへんだ・・・」

あまりと言えば、あまりに、あり得ない事態に、メタメタに盛り上がる東北大応援席
その瞬間! 「ゾーン」に入ったというか
・・・なんと申し上げればいいのか
・・・いったん、優勝が懸かると、メンバー全員、信じられないタイム。

・・・三位はどうか?・・・と思われていた中道。優勝! 
今年は無理だろうと思われた石川。優勝! 
次々に
みなベストを更新し、800リレーまでには、東北大はダントツ一位を固めていたのでした・・・あとは、フライングで五位以下にでも転げ落ちない限り、四位以内で優勝に決まっています。

「みんな~集まって」
「は~い」

考えてみれば、
この、中道、山家、岡田、石川は、四人とも仙台一高水泳部出身で、
岡田が入学してからの、この三年間。
2ケも、8ケも、下手すりゃメドレーも、同じメンバー

(・・・つまり選手層が薄い!・・・ホントはとても勝てるチームじゃないはず)

選手層が薄い分、3年間同じリレーメンバーで、スタートも引き継ぎも練習を重ね、もう、目をつぶっても、中道が突っ込むタイミングも、岡田が飛び出すタイミングも、自分の身体が、覚えています

「・・・んでも、過去の練習は全部忘れようぜ」
「・・・え?」
「フライングさえしなければ、絶対優勝だから、岡田、俺がタッチするのを、目でしっかり見てから飛び込んで! 石川も」
「ハイ」

それでも、中道が、2位3位を争いながら、突っ込んでくると、ついつい飛び出したくなります。
・・・いや、ここは、確実に。

200は得意なので、一人かわして岡田に・・・

あれ?
・・・・タッチしても、岡田が飛び出さないぞ?

確かに、いつのまにか自分もゾーンに入っているのかも?
・・・リレー中は、ある意味、クロック周波数が上がっているようで、私の指示通り、タッチをしっかりと見守ってから、確実に飛び出した岡田が、いつものタイミングに慣れた目には、スローモーションで飛び出していくようにしか見えないのでした。
後半伸びを見せる岡田、意地で頑張るラストスパートで石川が繋いで
・・・やった、銅メダルだ!

阿鼻叫喚とは、このことか?

今年の皆さんは、「優勝」は、手に届く現実でしょうが、30年前の東北大は、まず優勝戦線など考えられ無いチームでした。
あ~いうのは、東京の私立が勝つもんで、田舎の国立は、水泳やテニスみたいなソフィスティケイトされたスポーツは、勝てないと言われていた時代。
まあ、この時は、ある意味フロックではありましたが・・・

「うゎ~ん」と、
医短の(いまは保健学科ですね)女の子が、全力で泣き出します
「うぇ~ん」と、隣の子たちにも涙が伝染していきます

信じられないビックな喜びが突然降ってくると、人間、赤ちゃんみたいに、泣くしかないのかなあ・・・と、変なことを考えてしまいました

いや~・・・自分が生きている間に、こんな好いことが起こるとはなあ・・・と、ちょっと頭の中をよぎりますが、前キャプテンが涙を見せるわけにはいきません。

8継メンバー4人でプールに飛び込んでごまかしていたのでした。